浮評(2)
語録はおもしろい。それは、その発言主がおもしろいからである。名もなき人の名言集みたいなものはときどきあるが、それは偶然にうまれることもあるので信用にならない。
練習前の準備運動は、書道における硯を擦る行為だ。そこで気持ちよくならなければ、なにもうまくいかない。
これはわたしのことばなので、信用にならない。どうしてかというと、この発言をした直後に「あれ? わたしはいま、いいこと言ったんじゃないか?」と思ったからである。本当の語録を残すような人は、必然としてそのことばが沸き出てきて、それをふりかえって評価したりしないものである。 さて、最近といえばすっかりオシムだ。彼の語録はほんとうにすばらしい。
サッカーは終わらない。だから「サッカーとはこういうもの」と発展を妨げる「壁」は作らない。
6月11日、砂連尾理+寺田みさこの「I was born」をアトリエ劇研で観た。なにより注目したかったのは、ファック・ジャパンが踊る、ということ。彼は立っているだけでユーモアがあふれ出る特権的肉体の持ち主であり、わたしはいままでに彼と類似した体型の俳優を見たことがない。そして彼がダンサーとして舞台に立っても同様なのだ。つまり、彼のような肉体が踊っているダンス作品に出会ったことがなかったわけだ。いざ観てみると、これは発見だった。きわめてセクシーだったのである。砂連尾理のダンスはエスプリに富み、色気のある、誤解を恐れずにいうなら沢田研二のような、ちょっと笑えるんだけど圧倒的にダンディーな魅力がある。一方、ファック・ジャパンは、思いのほか硬派な色気で満ち満ちていた。よい意味で、彼の身体のユーモアをわすれさせてくれた。いや、そもそも彼の身体で踊ればユーモアになるという考え方が間違いなのだ。砂連尾理の演出力と、寺田みさこの想像力をかきたてるダンスとのアンサンブルによって、ファック・ジャパンの身体性の本質に触れることができたのだ。 桃園会の新作「もういいよ」を6月30日に精華小劇場で観た。この作品は、舞台のうえでくりひろげられることのほとんどのことを観客の目の前で解体し、そして鮮やかに再構成させていった。まず、上演されている内容が現在なのか、それとも過去なのかが危うく進行し、その過去がだれの記憶なのかという点で交錯し、さらには役者がなにの役をやっているのかをお互いに確認しあったりするのである。わたしにとって驚きだったのは、これだけ複雑な構成であるにもかかわらず、観客には乱暴に見えないどころか、きわめて丁寧に綴られていることをきちんととらえられるように仕組まれていることだ。この手腕には舌を巻く。そして、最後には作品におけるもっとも大切な要素、「死者への想い」を表現するためには必然な複雑さであると気づかされ、唖然とさせられた。 山田せつ子ダンスシリーズ 奇妙な孤独 vol.2を、7月2日に京都芸術センターの講堂で観た。印象的だったのは、ポスト・パフォーマンス・トークで高嶺格が「どう言ったらいいのかわからない」というような内容の発言である。こんな書き方をすれば、まるでわたしが作品そのものを評価していないかのように思われるかもしれないのできちんと断っておくが、けっしてそうではない。舞台作品にふれるとときどきあることだが、わたしが自身でいまだに理解できていないところであって、それは、「観ていられる」という感覚である。舞台作品が筋書きや構成で観客をリードする場合は、当然観客は次の展開を気にするから舞台上に注目するのである。が、実際のところ、わたしは優れた舞台作品にある共通点は、「観ていられる」ということなのではないかと思うのである。このダンス作品によって、またこのことについて考えさせられてしまった。「観ていられる」とは、どういうことなのだろうか。 翌週の9日、京都コンテンポラリーダンス・ラボ12のガラ・パフォーマンスを同じく京都芸術センターのフリースペースで観た。誠意をもって作品を創作されている出演者の方々には申し訳ない言い方ではあるが、とてもお得な企画だった。現在関西を中心に大活躍しているダンサー、振付家の作品を一挙に観れるわけだから、こんなにおいしいことはないのである。やはり申し訳ないのだが、各作品を簡単に。 ・坂本公成+森裕子「きざはし」…実際のアクティングエリアはもっとも小さいにもかかわらず、舞台芸術における空間の魅力を強く感じた。 ・納谷衣美+山下残「シビビビ」…やはり、精密な構成の中で見せるポップな瞬発力という点において、現在、右に出る者はいないと思う。 ・黒子さなえ「白日夢」…タイトルにふさわしく、捉えどころのない、夢と現がヒリヒリした関係を保っている様子をうかがえた。 ・砂連尾理+寺田みさこ「ユラフ」…男女デュオの紋切り型には収まりそうで収まらないところが定番化しているというトンチのようなダンスが、いつものように美しくて奇妙なリアリティーを提示してくれた。 ・セレノグラフィカ「それをすると」…繊細な振りから始まり、知恵の輪を解いていくときのような心地よい緊張感で動きがアクティブにひろがっていく構成に脱帽。
というわけで、何が言いたかったというと、今回はすばらしい舞台作品に恵まれて幸せだったのであるが、その創造者たちに共通していると思ったのは、「舞台芸術とはこういうもの」という発展を妨げる「壁」を作っていない点である。では、オシムにもうひとこと頼ることにしよう。
作り上げることのほうがいい人生でしょう? そう思いませんか?
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