criticism
 
●dracomリーダー 筒井 潤による楽しい評論。
 「自分のこと以外はすべてにおいて門外漢」という姿勢を貫いて約マンスリー。
 過去のフリーペーパーに掲載された作品も読める。
 (文章の性格上、基本的に敬称略とさせていただいております。ご了承ください。)


2006/09/10(日) 次回 浮評
次回は来月くらいにまた予定してます。
よろしくお願いします。

2006/07/17(月) 2006.7.17
浮評(2)


語録はおもしろい。それは、その発言主がおもしろいからである。名もなき人の名言集みたいなものはときどきあるが、それは偶然にうまれることもあるので信用にならない。


 練習前の準備運動は、書道における硯を擦る行為だ。そこで気持ちよくならなければ、なにもうまくいかない。


 これはわたしのことばなので、信用にならない。どうしてかというと、この発言をした直後に「あれ? わたしはいま、いいこと言ったんじゃないか?」と思ったからである。本当の語録を残すような人は、必然としてそのことばが沸き出てきて、それをふりかえって評価したりしないものである。
 さて、最近といえばすっかりオシムだ。彼の語録はほんとうにすばらしい。


 サッカーは終わらない。だから「サッカーとはこういうもの」と発展を妨げる「壁」は作らない。


 6月11日、砂連尾理+寺田みさこの「I was born」をアトリエ劇研で観た。なにより注目したかったのは、ファック・ジャパンが踊る、ということ。彼は立っているだけでユーモアがあふれ出る特権的肉体の持ち主であり、わたしはいままでに彼と類似した体型の俳優を見たことがない。そして彼がダンサーとして舞台に立っても同様なのだ。つまり、彼のような肉体が踊っているダンス作品に出会ったことがなかったわけだ。いざ観てみると、これは発見だった。きわめてセクシーだったのである。砂連尾理のダンスはエスプリに富み、色気のある、誤解を恐れずにいうなら沢田研二のような、ちょっと笑えるんだけど圧倒的にダンディーな魅力がある。一方、ファック・ジャパンは、思いのほか硬派な色気で満ち満ちていた。よい意味で、彼の身体のユーモアをわすれさせてくれた。いや、そもそも彼の身体で踊ればユーモアになるという考え方が間違いなのだ。砂連尾理の演出力と、寺田みさこの想像力をかきたてるダンスとのアンサンブルによって、ファック・ジャパンの身体性の本質に触れることができたのだ。
 桃園会の新作「もういいよ」を6月30日に精華小劇場で観た。この作品は、舞台のうえでくりひろげられることのほとんどのことを観客の目の前で解体し、そして鮮やかに再構成させていった。まず、上演されている内容が現在なのか、それとも過去なのかが危うく進行し、その過去がだれの記憶なのかという点で交錯し、さらには役者がなにの役をやっているのかをお互いに確認しあったりするのである。わたしにとって驚きだったのは、これだけ複雑な構成であるにもかかわらず、観客には乱暴に見えないどころか、きわめて丁寧に綴られていることをきちんととらえられるように仕組まれていることだ。この手腕には舌を巻く。そして、最後には作品におけるもっとも大切な要素、「死者への想い」を表現するためには必然な複雑さであると気づかされ、唖然とさせられた。
 山田せつ子ダンスシリーズ 奇妙な孤独 vol.2を、7月2日に京都芸術センターの講堂で観た。印象的だったのは、ポスト・パフォーマンス・トークで高嶺格が「どう言ったらいいのかわからない」というような内容の発言である。こんな書き方をすれば、まるでわたしが作品そのものを評価していないかのように思われるかもしれないのできちんと断っておくが、けっしてそうではない。舞台作品にふれるとときどきあることだが、わたしが自身でいまだに理解できていないところであって、それは、「観ていられる」という感覚である。舞台作品が筋書きや構成で観客をリードする場合は、当然観客は次の展開を気にするから舞台上に注目するのである。が、実際のところ、わたしは優れた舞台作品にある共通点は、「観ていられる」ということなのではないかと思うのである。このダンス作品によって、またこのことについて考えさせられてしまった。「観ていられる」とは、どういうことなのだろうか。
 翌週の9日、京都コンテンポラリーダンス・ラボ12のガラ・パフォーマンスを同じく京都芸術センターのフリースペースで観た。誠意をもって作品を創作されている出演者の方々には申し訳ない言い方ではあるが、とてもお得な企画だった。現在関西を中心に大活躍しているダンサー、振付家の作品を一挙に観れるわけだから、こんなにおいしいことはないのである。やはり申し訳ないのだが、各作品を簡単に。 ・坂本公成+森裕子「きざはし」…実際のアクティングエリアはもっとも小さいにもかかわらず、舞台芸術における空間の魅力を強く感じた。 ・納谷衣美+山下残「シビビビ」…やはり、精密な構成の中で見せるポップな瞬発力という点において、現在、右に出る者はいないと思う。 ・黒子さなえ「白日夢」…タイトルにふさわしく、捉えどころのない、夢と現がヒリヒリした関係を保っている様子をうかがえた。 ・砂連尾理+寺田みさこ「ユラフ」…男女デュオの紋切り型には収まりそうで収まらないところが定番化しているというトンチのようなダンスが、いつものように美しくて奇妙なリアリティーを提示してくれた。 ・セレノグラフィカ「それをすると」…繊細な振りから始まり、知恵の輪を解いていくときのような心地よい緊張感で動きがアクティブにひろがっていく構成に脱帽。


 というわけで、何が言いたかったというと、今回はすばらしい舞台作品に恵まれて幸せだったのであるが、その創造者たちに共通していると思ったのは、「舞台芸術とはこういうもの」という発展を妨げる「壁」を作っていない点である。では、オシムにもうひとこと頼ることにしよう。


 作り上げることのほうがいい人生でしょう? そう思いませんか?


2006/06/20(火) 2006.6.20
浮評(1)


しばらくのあいだ、表現に関する評論めいたことはしなくなっていた。その情熱に欠ける季節をすごしていたのだ。しかし、状況は変化し、じつは事態は好転しているのではないか、と仮定してみたくなるときにいまはある。「ファウスト」(池内紀訳)の“開演前”を引用して、そんないまを伝えたい。




 座長「だれもが楽しみたがっている。望みをかなえてやりたいじゃないか。(略)楽しませ方のコツを知らないでもないが、このたびはとんとお手上げ。といって、かくべつ、この連中(=見物衆)の目がこえているというんじゃない。ただ、むやみにいろんなことを知ってやがる。」



 まず、鑑賞者としてのちょっとした望みであれば手軽にかなえることができる。感動したければ名作を家で見ればいい。しかも、あらゆる方法で作品内容を事前に知ることができるから、笑いたいときはコレ、泣きたいときはコレ、という具合に選択し、可能なかぎり安定したかたちで鑑賞に臨む方法を知ってしまっているのである。しかし、ときにひとは会場に足をはこぶこともある。望みがなければわざわざそんなことはしないはずである。…笑ったり泣いたりといった感動以外のなにを望んでいるのか。



 座長「いったい全体、小屋にくるのがどんな連中だか、ごぞんじか。退屈まぎれに来るものもいれば、食いすぎたあとの腹ごなしにやって来るものもいる。いちばんひどいのは、新聞の劇評を見て駆けつける手合いだ。まるで仮面舞踏会へでも行くようにいそいそとやって来るのは、ヤジ馬根性のせいですしね。女連中ときたら念入りにお化粧してきて、礼金なしに客席でお芝居してやがる。」



 どうやら昔から多くの観客は変わっていない。大半はそんなものである。ただ、注目したいのは新聞の劇評を見てくる客を「いちばんひどい」としているところだ。おそらく、新聞の劇評に目をとおしているようなひとは、よほど熱心に観劇をしているにちがいない。にもかかわらず、「ひどい」のはなぜか。



 音楽をうけいれる者は音楽家ではない。音楽家はあたえられた音に満足せず、計算をめぐらし、技術をつくして、その音を何かまったくちがうものにみせかけようとする。それはきき手を共犯者としてひきこまずにはなりたたぬ。
(「高橋悠治 コレクション1970年代」高橋悠治)



 まったくそのとおりである。とすると、「きき手」を「観客」とせねばなるまい。わたしがおもうに、じゅうぶんすぎるお膳立てがなければ客席に腰をおろすことができないようなひとは、はじめからヤジ馬に専念する姿勢で開演をまっているのだ。とすれば、共犯者になることはとうていムリである。もちろん、主犯格の表現者が圧倒的な提案(=パフォーマンス)をしなければならない。しかし、いざとなれば共犯者になることを辞さない観客にしか、その表現の核心にふれることはできないのである。ひとは、共犯者になる勇気をあたえてくれる作品と直接ふれあいたいとかんがえなければならない。

2006/05/14(日) 2004年発表の評論(4)
          祈りの技法  【最終回】




 私は、バリ島に一ヶ月ほど滞在していたことがあります。ただ、貯まったお金で一ヶ月は生活できそうだったから、というそれだけの理由でした。特に何を学ぼうとしていたわけではないのですが、多くのことを学びました。


 バリに行けば、たくさんの画家やダンサー、ミュージシャンに会えます。というより、宗教家以外のほとんどは画家であり、ダンサーであり、ミュージシャンであり、といった具合です。宿のオーナーにもらった名刺にも、肩書きは「ペインター」となっているのですから。ホテルのボーイに「うちに来いよ」と言われたので行ってみると、ホテルの敷地内の片隅にあるあばら屋で、そこにあるのはベッドと生活用具と、たくさんの画材でした。確かに、彼らが生きていくことと絵を描くこと、踊ること、演奏することは同等に存在しているようです。職業を聞くつもりで「ホワット アー ユー ドゥーイング?」と質問すると、「ペインター」と答えられたりします。つまり、彼らは自分の職業とは別の、自分が生きている理由と言うべき肩書きを持っているのです。


  「私だって、アーティストだよ」なんて声が聞こえてくる前に忠告しておかなければなりません。私がバリで学んだいろんなことのうち、最も感動したのは、バリには「芸術(アート)」という概念がない、ということです。…この美しさを超える芸術作品って、ありますか?(この美しさに等しい作品は、すでに芸術であってはならないはずなのですが。)


 歌番組をテレビで見ていると、時々、モーニング娘。や福山雅治も「アーティスト」って呼ばれていたりするんですよね。実に核心を突いていると思いませんか? 自称「芸術家」の方々には、この辺をちゃんとわかっていてほしいです。


 …ちなみに、私は自称「舞台芸術家」で、私がリーダーを務めるdracomは「舞台芸術集団」なんですが、もちろん自覚していますよ。ぐるりとひと回りして。




                                   (パグマガ 第6号に発表)

2006/05/14(日) 2004年発表の評論(3)
          じっと、見つめる。




 「唾が飛んだ」、「若く見えるけど、首が老けてる」、「変な髪形だ」、「汚い靴」、「すごい埃」、「かわいい女優さんだ」、「汗かき過ぎ」、「台詞忘れた?」、「太ったな」、「煙草に火をつけた!」、「やっぱりすぐ消した」、「脇が汗でたいへんなことに」、「照明に手が当たりそう」、「瞬きが多い」、「救急車だ。火事? 近く?」、「台詞噛んだ」、「貧乏臭い」、等々…。


 ダメですか。こういうことでは。でも、観客は皆、見ているはずです。ウソはつかないでください。大切な台詞を聞き逃してしまうほどに、俳優の髪の毛が口に入ってしまっているのが気になるのが、私は普通の反応だと考えています。確かに気になるけれども、それはそれとして…、なんて言っているのはどこの誰ですか。どうしてすぐ目の前にある事実から視線を外そうとするのですか。無理矢理自分にウソをついて、作者の意図するところを懸命に探って、ようやく微かに見えてくるものがそれほどに価値のあるものですか。


 先日、友人のダンス公演を観た帰りのこと。とてもすばらしく、学ぶべきところが多い作品だったからか、全身に満ちた充実感を支えきれなくなったかのように、勢いよく座席に腰を下ろしました。あれは何だったのだろうと私の視線は中空をさまよい、購買意欲を鎮火させる車内吊りを経由し、真正面に座る人に至りました。年齢は、三十代前半くらいだと思います。ずいぶんとくたびれた感じの、ぼやけた女性でした。やや斜め向きに座り、側頭部を窓ガラスにもたれさせていました。私よりもかなり深い中空を捉えているようなまなざしが気になった次の瞬間、彼女が微妙に口ずさんでいることに気がつきました。歌。確かに歌。何の歌なのだろうか。しかし、もうそれもどうでもよくなるのに時間はかかりませんでした。彼女の瞼に涙がじんわりとたまってきたのです。決壊寸前でした。でも、こぼれ落ちません。…さっき観たダンス、私の充実感、電車の揺れ、流れる夜景、駅ごとの車内アナウンス、生ぬるい暖房、私の明日の仕事、彼女のボサボサの頭髪、歌う彼女の唇、彼女の涙、こぼれそうでこぼれない。その時私はそれらすべてを拾っていました。あえて見捨てるようなことはしていませんでした。なぜなら、それらすべてが等しくそこにあったからです。


 舞台作家はワケあって作品を提出するのでしょう。こんな私でさえそうなのですから、たぶんそうに違いありません。おそらく出演者も、ワケあって舞台に立ち、行為します。しかし、客席から眺めている多くの人々が、その表現者のワケを最優先してくれる保障など、どこにもありません。では、表現者が可能なこととは何か。答えは実に簡単です。ある観客の季節はずれな服装や、出演者の一人の右目が一重で左目が二重の瞼であるのと同じくらいに気になる表現をすることです。…わかりますか。こういうのを私は舞台におけるリアリティーだと考えます。と、言うのは簡単ですが、作り手にはたいへんな困難が強いられます。日常描写が巧みだからといって、このリアリティーが立ち現れるわけではありません。また、作者の意図とは別のところにある存在を打ち消してしまおうとしても、それは到底無理ですし、もし打ち消すことに成功したとしても、その作品には舞台芸術特有の強度が欠けているに違いありません。ゆえに私は、俳優の妙な毛深さに注がれる観客のまなざしの存在を拒否しない舞台作品には純粋に嫉妬します。


 それでも盲目的にあるべき舞台の姿だけを追い求めて、多くの実際から意識を背けるようにしていらっしゃる方に対して、私ははっきりとこう申し上げます。「私はあなたを信じない。あなたは嘘つきだ。」




                         (WING HOT PRESS 2004年5月号に発表)

2006/05/14(日) 2004年発表の評論(2)
          祈りの技法  【4】
                          

 
 先日、東京に。新大阪から新幹線に乗ろうとしたとき、退屈凌ぎの本を持ち合わせていないことに気づき、慌てて書店に向かいました。気楽に読めて、閉じたいときに閉じれる文庫を、ということで購入したのが『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』(角川文庫)。新しい本ではないですが、こういうときはそういうことにこだわらず。パンダやかえる、金太郎など、わかりやすいモチーフを、記憶だけを頼りにして描いたイラストを公募し、<いろんな意味で>優れた作品を評する、といった内容です。で、最初は笑いを堪えたり堪え切れなかったりしながら読み進めていたのですが、考察と座談会の章ではちょっと考えさせられました。


 「記憶はないが画力はある」作品と、「記憶はあるけど画力がない」作品、比べてみれば前者の方が説得力がある、という。確かにそうなんです。ペダルやチェーンがなくてもかっこいい自転車と、構造の問題は無いけど、なんだか不安な佇まいの自転車。この話、そのまま芸術にスライドさせてみてもおもしろいですよ。「ヴィジョンははっきりしないがテクニックがある」芸術家と、「ヴィジョンははっきりしているけどテクニックがない」芸術家。どちらが良い芸術家だ、とは断言できません。ナンシー関は「私の好みは『低画力・濃記憶』な作品。『低画力・薄記憶』も捨て難いが。」とのこと。芸術において、私もだいたい同意見です。(ここで、芸術なんて死んでしまっているので好みの問題になってしまうしかない、という現実に向き合わなきゃいけないことを忘れないでくださいね。)


 多くの人は騙されてしまっています。構造的には走れないけどスマートに描けている自転車に惹かれてしまうんです。おそらく、そこには典型への安心があるからでしょう。頭で把握していなくても、訓練された小手先の仕事で表現されたもののほうがより記号的で単純。(自分を含む)人間をより深く理解することとは、恐ろしいことなんです。




                                   (パグマガ 第5号に発表)

2006/05/14(日) 2004年発表の評論(1)
          祈りの技法  【3】
                          



声と身体に関して。


 ジョン・ケージの朗読劇CD「james joyce, marcel duchamp, erik satie:an alphabet」を聴きました。ジョンの声は驚くほど丁寧。そう、優しいでもやわらかいでも説明不十分。丁寧なのです。まるで、英語のレッスンテープを聴いているようです。設定と意味のコラージュの捌きも木目細やかな配慮からか、聴衆がずいぶんと笑っています。…そういえば、前回に取り上げた鈴木昭男さんも、声が繊細で丁寧な感じがしました。この共通点は無視できませんね。


 ザ・ラメルズィーがファーストアルバム「THIS IS WHAT YOU MADE ME」を“ドロップ”って、世間では言うようですね。何がすごいって彼の身体と例のどぎつい装飾の関係と、彼の声とINDOPEPSYCHICSのバックトラックの関係が見事に等しいということ。なぜ彼らが一緒に仕事をするに至ったのか、私はその訳を知りませんが、意外と、日本人の二人がザ・ラメルズィーの言っていることを完璧に把握することが出来ないからうまくいっているのかもしれないです。


 ウイリアム・S・バロウズの「DEAD CITY RADIO」は昔から持っていました。だから聴きなおしてみたのですが、彼の朗読はとにかくノリノリ。ケルアックもそうですが、文章に身体を任せきっている潔さから来るものだと思われます。そして、彼の声を操ってしまったハル・ウィルナーの手腕には脱帽です。


 ジョン・ケージが芭蕉に関することをCDでは語っていますが、それは偶然か、あるいは必然か、確かに日本語のリズムが生きていたのは江戸時代まで。そこに注目したジョンは、芸術性などどうでもよくて、芭蕉に潜む本当の日本語の、日本人の音質を日本の誰よりも理解できているのでしょう。




                                   (パグマガ 第4号に発表)

2006/05/14(日) 2003年発表の評論(6)
          祈りの技法  【2】
                          



 世に芸術家と呼ばれる人はたくさんいます。時々、冷やかしかなんかでしょうが、私もそんな言われ方をして複雑な気分になります。でも、きっとうれしがる人もいるんでしょうね。というか、うれしく思う人のほうが多いのではないでしょうか? 私は、その存在意義はもはや便宜的なものでしかなく、実際のところは何のリアリティーもない芸術という言葉は信頼していないし、それと同様に芸術家なんてのも眉唾物と捉えています。しかし、芸術家という胡散臭い存在ではなく、それでいて便宜上の芸術としか言い様の無いジャンルで活躍している真実の人に先日出会いました。その人は、鈴木昭男さんと言います。サウンドアーティストと呼ばれています。


 10月4日から26日まで、築港赤レンガ倉庫で「ANALAPOSPHERE」と題された鈴木さんのイベントが行われていたのですが、その期間中に彼自身によるパフォーマンスやトークイベントがありました。
 

 こう述べることこそ、彼を知らない読者には眉唾物としか理解できないかもしれませんが、鈴木昭男さんの自作楽器の演奏から、石をカチカチと叩き合わせる音、あるいは足音、普通のおしゃべりまでも彼の音として空間に広がるのですが、問題は彼の立ち居振舞までもが、いちいち“音”なのです。簡単に言うと、彼の存在そのものが“音”だといことです。音楽について追及すると行き着くところは“音”そのものであるのと同様に、音楽について考えることは、すなわち鈴木さんについて考えることなのかもしれません。ただし、“音”そのものは芸術として存在するものではないので、鈴木さんの存在を芸術家と括るのはおかしいのです。“音”がなければ音楽芸術概念が生まれなかったのと同様に、鈴木さんの存在は便宜的な芸術なんて言葉よりずっと先のところに位置しているので、彼が芸術家であるかどうかなんていうことはもうどうでもいいことなのですよ。




                                   (パグマガ 第3号に発表)

2006/05/14(日) 2003年発表の評論(5)
          祈りの技法  【1】
                          

 わけあって、というよりも、わけをつくって、8/20・21、新世界にあるBRIDGEに通いました。20日は「POOL」、21日は「FACE−mixture」という、内橋和久さんが主催するセッションイベントに参加するために。


  「POOL」は音(楽)のセッション。私は普段自分がライヴやdracomの舞台で使用する機材を持参して臨みました。正式エントリーは私含めて3人。一応19時スタートと告知されていましたが、(すでに、きっちりとした決まりごとを避けるが如く、)穏やかにずれ、緩やかに始まりました。…私はただがむしゃらに。


  「FACE−mixture」はダンサー、映像作家も加わった異ジャンル混合セッション。私はdracomのメンバーに朗読してもらい、それを使って音響的にアプローチしようと試みました。…私はただがむしゃらに。ところが、一緒に参加したメンバーとの息が合わず、結果的に不条理コントになってしまい、でも、ま、いいかと。


 私は日頃、舞台作品をつくるにあたって、即興性を避けて通ってきました。「演技」する俳優の即興はつまらないと感じていたからです。ただ、それをつまらないと感じる理由ははっきりしていませんでした。が、この夏の2日間で、明確になりました。実に単純明快。彼らが即興を知らないからです。そしてその無知が、「演技」の即興を限りなく芸術性から遠ざけ、怠惰なものにとどめてしまっているのです。いいえ、私だってそんな演劇畑出身の人間でありますから、同様に無知であったことを隠したりはしません。


 「即興とは…」。内橋さんの言葉が頭にこびりついています。「完全な自由(≒自分を制限しない+相手を制限しない)」。そして、「命がけ(≒強く自分を保つ)」。異常な説得力に感動しました。…ただし、私は決して見逃してはいません。そこには芸術を保証するものは一切無いと。しかし、惰性なんかよりは遥かに芸術の近くにある、と。




                                   (パグマガ 第2号に発表)

2006/05/14(日) 2003年発表の評論(4)
          祈りの技法  【序】


                          
 みなさんもよくご存知のとおり、とっくの昔に演劇は死んでいます。今さらこのようなことを再確認するのもずいぶんと野暮ですが、この連載のタイトルの意味を理解していただくためには、恥をしのんで、あらためてお伝えしなければならないと考えました。


 つい最近、新興宗教団体の代表が、すでに亡くなっている方をまだ生きている、あるいは生き返ると信じて疑わず、祈り、念じ続けて罪を問われるといった報道を何度か見聞きしました。俄かに納得のできる話ではないと、およそ常識とされている考えをもった方々は思ったことでしょう。罪を問われて然りだと。しかしながら、ほんの少し異なるフィールドでは、同様の行為を美徳とされています。それは、演劇という分野です。演劇という屍を前にして、まだ生きていると信じ、祈祷を捧げ続けている演劇人は思いのほかたくさんいます。そして、演劇の鑑賞者たちの眼には、純然たる演劇そのものではなく、演劇人が祈祷する様子が映っているのです。鑑賞者の最大の関心事は、祈りの技法であって、屍が生き返るかどうかではありません。


 今後、私はこの連載を通じて、様々な演劇人の興味深い祈りの技法を紹介していきたいと考えています。なぜならば、祈りの技法を科学的なまなざしでとらえればとらえるほど、演劇の屍がくっきりと浮かび上がってくるからです。よって、誤解される可能性があるので先にお伝えしておきますが、私は祈りの技法を評価するつもりはありません。決して生き返ることのない屍に対する祈りの技法に、良い・悪いなどといった評価を下すことにいったい何の意味がありますか? (祈りの技法を身勝手に評価することしかできない鑑賞者のいかに多いことか!)


 …ずいぶんと大きく出てしまったと思わなくもないです。が、たいして不安でもありません。いくら言葉を並べても、演劇について語っていることにはならないのですから。




                                   (パグマガ 創刊号に発表)


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